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「課題の分離」ができないことがイライラの原因か!?

 昨日の出来事をあれこれ考えているうちに、何かがトリガーとなって「課題の分離」という言葉が浮かんできた。

 

 これはアドラー心理学の概念だ。

 

 

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 本文を引用。

 

自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。
 
そして他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。これは具体的で、なおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点になります。
 
嫌われる可能性を怖れることなく、前に進んでいく。坂道を転がるように生きるのではなく、眼前の坂を登っていく。それが人間にとっての自由なのです。
 
もし、わたしの前に「あらゆる人から好かれる人生」と「自分のことを嫌っている人がいる人生」があったとして、どちらか一方を選べといわれたとしましょう。わたしなら、迷わず後者を選びます。他者にどう思われるかよりも先に、自分がどうあるかを貫きたい。つまり、自由に生きたいのです。
 
課題の分離が理解できれば、すべてのカードは自分が握っていることに気がつくでしょう。これは新しい発見です。
 
わたしが変わったところで、変わるのは「わたし」だけです。その結果として相手がどうなるかはわからないし、自分の関与できるところではない。これも課題の分離ですね。もちろん、わたしの変化に伴って——わたしの変化によって、ではありません——相手が変わることはあります。
 
他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。
 
つまり、われわれが「共同体」という言葉に接したときに想像するような既存の枠組みではなく、過去から未来、そして宇宙全体までも含んだ、文字通りの「すべて」が共同体なのだと提唱しているのです。
 
 
 僕が最近イライラしているのは、「課題の分離」ができていないから、つまり他者の課題に土足で介入しているからです。
 しかったあの子の課題はあの子のもの。だからそこには土足で介入しない。相手を変えようと思わない。でも自分にできる協力はできる準備を進めておく。
 「僕にできることはあるだろうか?力を貸すよ」と伝えてみよう。
 
 相手の課題だとわかれば、このイライラも消えるかな。春休みまでに読み返してみたい数冊が生まれました。

 

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

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勇気づけの心理学 増補・改訂版

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